一人暮らしの心得
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物騒な世の中だから、突然の訪問者には注意した方がいい。だが自衛のためとはいえ、一人暮らしなのだからどうしても玄関を開けなくてはならない訪問者というのは確かにいるのだ。それは宅配だったり郵便屋だったりするのだが、いくらインターフォンを鳴らされても、一度目は無視してしまうに限る。面倒でも不在者通知を受け取ってから、時間帯を指定して再度訪問してもらうように依頼するのだ。そうすれば次のインターフォンで荷物を受け取ることができる確立は格段に上がる。
私はこの平日の昼間、自宅にて宅配を待っていた。昨日郵便受けに入れられていた不在者通知に電話をし、今日の昼に届けてくれるように頼んでおいたのだ。それはインターネットで注文した書籍のはずだった。私はそれを受け取り、すぐさま開けて中の本を読む予定をたてていた。出版されるのを心待ちにしていた本なのだ。午前中に買い物は済ませた。掃除もした。家の中にも外にも私を煩わせるものは何もなくなったはずだ。本さえ届けば、私は本を読むという行為以外のことをする必要がない。完璧だ。私にとってこれ以上の幸福の時間はない。
準備万端の私。そしてそろそろ宅配の届く時間だ。インターフォンをとる体勢は整っている。いつでも来たまえよ。
そこに響いた神の啓示のごときインターフォンの音。私は受話器に飛びついた。
「○×新聞です」
騙された、新聞屋か。私の顔はにわかに引きつった。そうだ、いくら不在者通知を受け取ってから連絡しなおしたとして、次にインターフォンを鳴らす相手が“必ず”連絡した宅配便や郵便であるとは限らない。時間帯指定にも限界がある。訪問者は同じタイミングでたまたま訪れた別の人間である可能性もあるのだ。この忌々しい新聞屋のように。
「ご苦労様です。ですが、新聞は取りませんのでお引取り下さい」
もとより新聞屋と分かっていれば、インターフォン越しにさえ応答する気のなかった私は簡潔に答えた。聞いたこともない新聞の名前だった気もするが、それはどうでもいい。私が欲しいのは新聞ではなくて本なのだ。
「そうおっしゃらずに、味見だけでもさせてください」
どこか聞いたことのある声のような気がした私の眉間に皴が寄る。それにしたって、味見だって? おかしなことを言う奴だ。新聞の勧誘なのだろう? だったら試し読みではないか。しかも私が味見をするわけではなく、お前がするのか? 私が至極まっとうな疑問を胸に抱いた瞬間のことだ。インターフォンの受話器に耳を当てていた私の耳たぶをべろりと舐め上げた奴がいた。誤解しないように断っておこう。部屋に居るのは確かに私ひとりだ。甘えた恋人が、私に構って欲しくて云々などという砂吐きの展開では決してない。というか、私に恋人はいない。ペットだっていない。それを自分で告白したところで、寂しさを感じたりもしない。一抹も!
ねっとりとした舌の感覚に、私は声にならない悲鳴を上げた。ついでに全身も一気に総毛立ち、私はたまらず踵と肩を上げた。危うく頭のてっぺんから魂まで抜けてしまいそうな悪寒が駆け抜けた。
「おや? この味は……」
やはりこの声は、聞いたことがある。そして受話器を通して耳を舐めるという暴挙というか曲芸というか、をしてみせる非常識な奴を私は一人だけ知っている。
「もしも〜し。……また居留守を使うつもりか?」
人聞きの悪いことを言うな。私だってそういつもいつも居留守を使っているわけではない。いつもは仕事があるから本当にいないのだ。今日はたまたま休日出勤分の振替日のため自宅にいるだけなのだ!
「今さら居留守も何もあったもんじゃあないでしょう」
心の中で誰にともなくそう説明しながらも、私はスタイリッシュに切り返す。
「おう、もっともだ」
「新聞はいりません。ついでに言うなら味見もさせたくありません。お引取りを」
「もう味見はしたが……」
あぁ、確かにもう味見はされてしまっている。事実であり現実だが、それが大層不愉快だった。例えようもなく嫌で虚しい喪失感があるのだ。
「帰れ」
私は絶対零度で言い放つ。しかし悪魔の奴は鈍感のためか寒さが全くこたえないらしいのだ。
「まぁ、そう邪険にするな。今なら新聞購読三ヶ月につき願い事をひとつ叶えてあげちゃうオプション付き!」
なんともうきうきと春爛漫の調子で宣伝して返してくる。お前の心が春真っ只中であったとしても、私の心はまだ大寒だ。
「そのオプション、私には意味がないじゃあないか」
忘れたとは言わせないぞ。私は前回この悪魔に願い事をしているのだ。それはこれ以降私が願うことを一切叶えるなという願いだった。
「ちっ、そうだったな」
そうなのだ。しかし悪魔が新聞屋をしているという事実に、多少なりとも興味は湧く。単なるアルバイトなのだろうか。聞き覚えのない新聞名だったが、地方紙の一種かもしれない。
「ちなみに、三ヶ月の購読料は?」
訊いてみたってとらないけれどね、と心の中で言い訳する私は、この段階では悪魔の誘惑に乗りかけていたのだろう。悪魔もそれが分かったのか、忌々しげに舌打ちした時とは打って変わって商売用に声を張り上げた。
「寿命半分とお安くなっています!」
「高いわ、ボケェ!」
コンマ何秒の反射で叫びつつ、私の右手は自然と宙を切り裂くようにして翻る。手首のバネがポイントだ。
「おぉ、インターフォン越しにでも分かるナイスな裏手ツッコミ!」
分かるのか? 分かってしまうのか、そういうことが。
「まあまあ、話だけでも聞いてみなよ、みちゃいなよ」
お前は何者だ、って悪魔か。新聞の勧誘をしている悪魔だったな。インターフォン越しに裏手ツッコミが感じ取れるボケ役悪魔だった。
「この新聞はお得だぜ。何と言っても魔界の裏事情がたっぷり載っている」
何と悪魔が売りつけようとしているのは地方紙ですらなかった。魔界エディションとでも言うべきか。そんなもの人間にとっては社会勉強にすらならない。番組欄だって使えないだろう。
「……例えばどんな?」
「例えば? そうだな、ミカエルとルシファーの駆け落ち騒ぎはいつものことだし……」
いつものことなのか? そんな腐女子が喜びそうなネタが、日常的に起きているというのか? 喜びそうどころか、うっかり喜んでしまった人間がここにいるが。
「今日の一面は……駄目だ。人間にはちょっと刺激が強すぎるな」
当の人間にそんなものを勧めるな。しかもそんな含みのある言い方をして。好奇心旺盛な人間が引っかかることを見越しての勧誘なのだろうか。悪魔の奴、なかなか商売上手だ。
「分かりました。購読しましょう」
私は思い切りよく返答した。
「毎度ありがとうございます!」
「ただし」
私ははっきりと言い添える。
「何だ? 願い事が駄目なら洗剤でも欲しいのか?」
というか、洗剤ならお前は持っているのか。
「先に私の寿命を教えてもらいましょうか」
インターフォンの向こう側で、悪魔は明らかに数秒間沈黙した。それから気を取り直したように落ち着かせた声でこう言ったのだ。
「疑う必要なんてない。悪魔は嘘をつかないものなんだぞ?」
そうだ、いつも嘘をつく側は人間なのだ、ということは私も知っている。
「知っています。でもすべてを明かすということもしない。購読料はいったい“誰の”寿命半分ですか? そこをはっきりさせておかなくては、契約はできません」
「うむむ……」
「“私の”寿命半分だというのなら、私の寿命をあらかじめ教えておいてもらわなくてはフェアじゃあない。嘘をつかない悪魔さん?」
もっとも、人の寿命を悪魔が性格に把握しているのか、というところも疑問だ。それはこの間ピースサインをして去って行った死神の管轄だろうと思われる。だがこの状況で悪魔はそれを深く追究したりしないだろう。そこに悪魔が入るかどうかは別として、墓穴を掘るだけだからだ。
「嘘をつかない悪魔というのはイコール正直者ではないのだ」
言い訳めいた口調でぶつぶつと呟いた悪魔に、私は声の笑顔を爽やかに返す。
「知っています」
するとインターフォン越しに聞こえたのは明らかな舌打ち。営業モードはもう役に立たないと悟ったらしい。
「全く、前回といい今回といい、チャンスを棒に振る人間だ」
「他人のチャンスならいくら振っても潰しても、痛くも痒くもないものです」
私はダイレクトに言い返す。悪魔はぐうの音もでない様子だ。
「……お前、悪魔に向いている」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
私はキュートに言い返す。女はみな生まれながらにして小悪魔なのだ。成長して大悪魔になったって不思議ではない。
「全く……味は悪くなかったのに……」
そして時と場合によっては悪魔よりも恐ろしくなれる。
「今すぐ帰れ」
私の言い様が恐ろしくてたまらなかったのか、悪魔はすぐさま帰っていった。それから一分も経たないうちに“私の”本が届いたので、私は悪魔よりも恐ろしい人間から、天国よりも高く飛べる人間になった。本一冊で神より高い位置に昇れるわけだから、我ながらお手軽な人間だ。正直言えば、魔界の新聞でだって高く飛べただろうけれど、それが購読料に見合っているかどうかは、一人暮らしでも倹約家でなくともしっかりと考えなければいけないことだろう。